使われなくなったランドセルを紛争と混乱が続くアフガニスタンの子どもたちに届け、学ぶ喜びを知るきっかけにしてもらいたい。
2004年、化学メーカーの「クラレ」がこんな思いで始めたのが「ランドセルは海を越えて」です。
ランドセルは小学生が毎日使う学用品ですが、多くの場合、卒業とともに出番を失います。6年間の成長の思い出が詰まっているため、捨てるに捨てられず、多くは押し入れの中にしまわれたままになっています。
まだじゅうぶんに使用できる、ランドセルに第二の活躍の場を与えられないものかと「クラレ」は考えました。
答えは意外なところからもたらされました。日本から6000キロ離れた国アフガニスタンでした。現地のNGOから「長引く紛争で子どもたちの学用品がとても不足しています。1人でも多くの子どもを学校で学ばせたい」という情報がもたらされました。
自分のランドセルを送ることでアフガニスタンの子どもの役に立てるなら送ってあげようと毎年たくさんのランドセルが全国から届けられます。
海を越えたのはランドセルでしたが、日本とアフガニスタンの子どもたちの間に生まれた友情こそ、未来へとつなぐこの活動の価値だと確信します。
「ランドセルは海を越えて」ドキュメンタリー動画
みなさまから送られたランドセルが日本からアフガニスタンに渡り、現地の子どもたちに届けられるまでの道のりをご紹介します。
全国から倉庫へ送られたランドセルは開梱し山積みされます。
(ランドセルとボランティアの人たち)
ランドセルの故障や豚皮が使われていないかなど、送られたランドセルを1つずつ検品します。イスラム教徒の多いアフガニスタンでは豚製品の使用は禁止されているため送れません。
検品されたランドセルと学用品は、これからの長旅に耐えられるよう段ボール箱に入れられます。箱積みされたたくさんの段ボール。もうすぐコンテナを積んだ大型トラックが到着します。
横浜港から出航するコンテナ輸送船。ランドセルを載せた船舶はシンガポールに向かいます。シンガポールでカラチ港に向かう別の輸送船に積み替えられます。海上輸送の途中で、台風の影響で海が大荒れになったり、強風が吹いたりすると、海上輸送は遅れます。船舶が安全に航行することができないためです。横浜港からシンガポールを経由してカラチ港に海上輸送される距離は10,703キロメートルです。
コンテナに積込まれたランドセルはカラチ港で荷揚げをされて、通関の手続きを行います。コンテナはトラックに積み替えられ、カラチからアフガニスタンのジャララバードまで、内陸輸送で1,858キロの距離を運ばれます。この距離は、日本列島を弓状にして、北の青森県下北半島の北端に位置する大間町から南の山口県下関市までの距離1,356キロと、東京から徳島までの距離502キロを加えた総延長と同じです。トラックはカラチから、ハイデラバード、モロ、スクルを経由して、インダス川の西側の道路を北に向かいます。途中、デラガジカーン、ペシャワールを経由してアフガニスタンとの国境の町トルクハムで積荷の検査があります。検査が終わるとアフガニスタンに入国する許可が出ます。そして、最終目的地のジャララバードに到着します。ここで、ジャララバードにクリニックと事務所を置くアフガン医療連合に引き渡されます。アフガン医療連合は、更に別のトラックにランドセルを積み替えて、ナンガハール州の村落の各学校に運びます。
ランドセルを載せたコンテナ船は、パキスタンのカラチ港に到着します。カラチにあるアフガニスタン領事館から、アフガニスタン向けのランドセルを港から荷揚げをする許可を得ます。カラチ港は南アジア地域で最も大きな港のひとつです。パキスタンが取り扱う貨物の約60%はカラチ港を経由します。カラチ港コンテナターミナルは1996年に作られました。近年は、カラチ港が取り扱う貨物は増え続けているため、港は常に混雑をして、ランドセルを積んだ船が沖合で待たされる日数が長くなりました。その結果、荷揚げと内陸輸送が遅れます。カラチ港は貨物取扱の港湾能力の増強と効率化に取り組んでいます。カラチ港の位置は、中東のホルムズ海峡にも近いため地政学的にも重要な港です。
カラチ港は1857年に開かれた古い港です。日本の明治維新(1868年)の11年前です。イギリスの植民地時代には、パキスタン(当時のインド)で生産された綿花はカラチ港からスエズ運河(1869年開通)を通り、イギリス本国の綿工業のために輸出されました。アメリカでは南北戦争(1861年~1865年)に起こり、イギリス本国の綿花の不足を補うためインドとパキスタンにわたるパンジャブ地方で生産された綿花を輸出する基地としてカラチ港が活用されました。
ランドセルを載せたコンテナ船は、混雑をしているカラチ港を避けて、パキスタン第二の港のカシム港で荷揚げをするすることが多くなりました。カシム港は、1980年にカラチ港から東に52キロ離れた場所に作られました。カラチ市中心部から35キロメートル東に位置します。パキスタンの貨物の35%を扱います。カラチ港とカシム港の2つで、パキスタンの対外貿易の90%を扱います。
パキスタン側のカイバル峠から見たアフガニスタン側の風景です。カイバル峠は、パキスタンとアフガニスタンを結ぶ交通の要衝です。ランドセルを載せたトラックは、ペシャワールを経由してカイバル峠を上ります。高低差は1,070メートルです。ランドセルが通過する地形的に最も難所のひとつです。カイバル峠は、万年雪があるシカラム山系(シカラム山は海抜4,761メートル)に続いています。アフガニスタン内戦の時は、ここを通過するトラックの積み荷が時々襲撃され強奪され、世界で最も危険な峠といわれました。
アフガニスタン内戦の時は、多くの難民がこのカイバル峠を越えてパキスタンに逃れました。そして、内戦が終わると、また多くの難民はカイバル峠を越えて、アフガニスタンに戻りました。現在でも、病気になってもアフガニスタンでは適切な治療が受けられない人々は、カイバル峠を越えて、パキスタンで治療を受けています。
カラチとアフガニスタンとの国境の町トルクハムを結ぶ国道5号線は、全長が1,819キロメートルです。また、アジアで最も長いアジアハイウェイ(全長20,710キロメートル)もカイバル峠を通ります。アジアハイウェイは、東京から韓国、中国、ベトナム、タイ、バングラデシュ、インド、パキスタンなどのアジア諸国およびイランを通ってブルガリア国境で、トルコのエディルネ県カプクレまで行きます。経由する国は32カ国です。歴史的にカイバル峠は、シルクロードから南下してインドに向かう交易路としても重要な役割を果たしました。玄奘三蔵(602年~664年)は、巡礼と仏典を求めて陸路でインドに向う途中、カイバル峠を越しました。
カイバル峠を通過すると、アフガニスタンとの国境の町トルクハムに着きます。トルクハムの町は、同じ名前で、パキスタン側とアフガニスタン側の両方にあります。ここでコンテナに入れられた積荷のランドセルの検査があります。トルクハムでの通関が終わると、ランドセルはアフガニスタン国内に入ります。ここから65キロ先が目的地のアフガニスタンのナンガハール州の州都ジャララバードです。ナンガハール州は、アフガニスタン内戦では激戦地でした。アフガニスタン全土では約1000万個の地雷が埋められ、ナンガハール州には数百万個の地雷が埋められました。地雷を踏んだ多くの人々は犠牲となりました。今では、地雷が処理され、主な幹線道路は車両が通り、市街地も歩けるようになりました。
アフガニスタンのナンガハール州ジャララバードから、クズクナール郡の村落の学校にランドセルを載せたトラックが到着しました。もうすぐ子どもたちの手にランドセルが届きます。
はじめて見るランドセルなので使い方が分かりません。でも、先生に使い方を教えてもらいます。
アフガニスタンでは男女別々のクラスで勉強をします。ランドセルをもらった男の子はみんな嬉しそう。
ランドセルをもらって女の子も嬉しそう。アフガニスタンではタリバン政権時代に女子教育が認められていなかった影響もあり、男の子に比べて女の子は学校に通わせてもらえない子がたくさんいました。ランドセルを男女平等に配ることで「女の子も男の子と同様に学校で勉強させてあげるべき。」、と思う親の考え方が少しずつ変わりはじめました。
このランドセルで一生懸命勉強して読み書きができるようにがんばるよ。
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